ポカラ通信−Vol.2
新しく生まれ変わったネパールに期待しよう
認定NPO法人ブッダ基金 山口貴司
<新しいネパールの起点?6月17日の会談>
1. 今年は4回目のネパール行である。そしてとうとう居座ってしまった。2月、6月、8月〜9月に来て、更に10月23日よりは長期滞在している。8次派遣団から11次派遣団をブッダ基金は送ったのだが、その全てに参加した。
この間にネパールの政治情勢はめまぐるしく変わった。2月にはこの国の行く末は見当がつかず、暗い暗雲が立ち込めていて、国王、7大政党(SPA)とマオイストの鼎立は固定されてしまい、どうしようもないだろうと思われた。訪れた国会議事堂は閉鎖されていて、議員の机や椅子はカバーで覆われ、埃を被っていたのだった。床に敷き詰められた赤い絨毯もこころもちくすんで、来客のないホテルの雰囲気だった。
ところが4月になって民主化の大運動が起こり、SPAとマオイストは弾圧に屈せず協力して国王を追い詰め、王宮を占拠せんばかりの勢いとなった。危機感を募らせた国王は譲歩して国会を再開することを宣誓し、議員内閣制を認めた。2002年の国会議員がそのまま復活し、老練政治家のGPコイララ氏が首相となって、ぐいぐいと改革を進めていった。
6月、「あけみちゃん心臓基金」で助かったネパール人を取材するため訪ネした産経新聞記者徳光氏と、ウジラさん(15才、三尖弁閉鎖症でフォンタン手術を聖隷浜松病院で受けた)とで、カトマンズのあるホテルで歓談していた時、なにやら重要な会議が今開かれているとの報道があった。6月17日の朝刊を見て驚いた。
マオイストのリーダー「プラチャンダ」とSPAとの歴史的会談がコイララ邸で開かれ、停戦協定に合意したと、写真入で紙面トップに報道されていたのだ。
Prachanda, opening his mouth, lifting his arm
like grasping Nepal, said that the agreement proved that they could go together
to fulfill the Nepali people's desire of peace and prosperity braving enormous
pressure from "powerful countries' and "big revolutionaries"
against the idea of both sides realizing an understanding to topple autocracy.
と、こんな風に私の日記に書いてある。その数日後、私はカスキ地区のMaoists代表に密かに会えたの であった。(前号参照)
8月 戦闘は終結し平和が戻っていた。しかし、新しい憲法草案はその輪郭さえ知らされていなくて、肝心の武装放棄に関しても両者の合意は得られず、再び混乱が起きるかもしれないという不安があった。首相は高齢にもかかわらずインドへ行き政治的駆け引きをしていたし、マオイストも国境を越えてインドの友朋との連絡を取り合っていた。
10月 腰を据えてネパールで何ができるか、ある期待をもって来たのだけれども、大きな困難に出会っている。もとより覚悟はしていたが、それは協同あるいは協調といった概念が少ない国民性である。
ブッダ基金と協力関係にある2つのNGOがある。それぞれ素晴らしい人間の集団と思っているが、この集団どうしが協調できないのである。
しかし、そのうち笑って済ませる様な関係に発展するかもしれないので愚痴はいうまい。
11月20日、また歴史的合意が締結された。その様子は逐一テレビで放映され、私は友人の経営する焼き鳥屋で解説付きで見たのであった。首相とマオイスト代表が調印する段になると、ワアーっと歓声が沸き起こり、誰彼となくビールを注ぎあって乾杯した。
翌日は国民休日となった。夕方になると各家の庭先や道路沿いにもローソクが灯され、丁度停電があったから、その灯火は夕闇の中を二筋のゆらめく光線となって、うねうねとどこまでも続いていた。
2.今年はKarpani村(カラパニ)、Ghachok村(ガーチョック)、それにDhampus村(ダンプス)で無料の移動診療(キャンプ)をした。ポカラから30Km範囲の村である。最近では日本人が来るのは始めてという山奥にあるRupatal村まで出かけて、オーストラリアのNGOが支援している飲料水供給事業の現場を視察したり、マチャプチェレ村(VDC)の山岳民族グルング族の古くから伝わる三日三晩の葬式に招かれたり、とにかく歩いていかなくてはならない場所が多い事情と、そこに住む人々の暮らしぶりを見た。
浜松市の私のクリニックにはダウラギリとかムスタンからやって来たというネパール人が多数診察に来ていた。そして彼らはポカラまで出るのに1週間歩き続けたと言っていたが、本当だったのだ。 特にムスタンから来た者は病気になり易かった。今でこそ予防注射を実施しているようだが、10数年前はしていなくて、日本で結核を発病した患者を何人も診た。
面白かったのはカラパニ村で、セティ川の上流にあり、ポカラより15Kmしか離れていないが、道が悪いので外国人は殆ど訪れない寒村である。この村を流れる川底からは、勢いよく熱いガスが100mの幅で噴出していて、川原の砂を掘ると周囲から滲み出す水はたちまち温水になる。硫化水素の臭いがするから硫黄泉だろう。断崖の真下にあるあたりが今は最も温度が高い。そこに6畳ほどの溜まり場があって、周囲を岩でぐるりと囲った、深さは膝にかかる程度の温泉である。日本の温泉をイメージすると、とんでもないと言われそうだが、れっきとした野天風呂である。こちらは裸体は禁止であるから男はパンツ、女性は水着か腰巻の長いので胸まで隠して入る。熱いのでとても背筋を伸ばしてゆっくりというわけにはいかない。岩をまたいで、川の肌を切るような冷たい水を体に浴びせてからまた入る。上流から滔々と流れ落ちる川音を聴きながら、ふっと見上げるとマチャプチェレが三角錐の稜線をくっきり見せて目の前に迫ってくる。これこそ本当の野天風呂なのだ。
スコップかシャベルを渡して、自分で掘って温泉に入って下さい、というのも面白いかもしれない。しかし、どうしても温泉旅館をイメージしてしまう。ボーリングなどしたら滾々と湧き出るや否やは知らないが、おそらく数メートルもすれば温泉に当たると思う。村人には資金力がないし、どうせ夏になればみな川底に沈んでしまうものだから、本気で開発しようなどとは誰も思ってもいない。井戸を掘ってみたとしても熱くて1mも進まぬうちに諦めてしまうだろう。
頼まれてもいないのに、勝手に想像してしまうのは、ここが温泉場になって道路もよくなって、外国のお客さんに楽しんでもらえることだ。
今年は日本ネパール友好50周年という年にあたり、幾つかの祝賀行事もあって多くの日本人がポカラに来た。長野県の駒ヶ根市はポカラ市との姉妹都市でもあり、市長さんはじめ30余名の派遣団がやってきた。フェワ湖の南端に駒ヶ根公園があって、ここでも盛大な祝賀祭が行われた。盆踊りやミュージシャンのライブがあったりして終日賑わっていた。市長一行が帰る日に晩餐会が開かれ私も招かれた。私は松本市の出身であるし、中川村(駒ヶ根市と飯田市の中間にある)に古民家があるから、市長さんはじめJICA訓練所長さんなどと話が弾んだ。駒ヶ根市には「はやたろう」温泉がある。はやたろうは忠犬であり、その名を冠したラーメン屋が浜松市にもあって、麺が細くしんなりした感触と、炭火で焼いたチャーシューが好評で繁盛している。
市長に「はやたろう」ラーメンやカラパニ温泉の話をして、どなたかボーリングの技術者を派遣してもらえないか頼んでみた。「そりゃ日本と違うからね。いないことはないが、費用のことを考えると即答はできないね。どなたか開発業者に頼んだら如何だろう」とすまなそうに答えられた。
3.Golden Jubileeは50周年記念をさす英語だが、既に述べたように日本とネパールは国交ができてからは、王室同士の交流もあったり、ヒマラヤを目指す登山家の憧れの地であるし、また最近ではラフティングやトレッキングの楽しみも有名となり、石楠花(しゃくなげ)の咲く3月ともなるとお年寄りの観光客も大勢来るようになった。
日本人は多い年には3万人は来ていたが、国内の混乱で1万人を切るまでに減少し、これからは再び盛り返すことになろう。
この国の産業の第一は観光である。スイスのような国にしたいと殆どのネパール人は思っている。だが登山電車はないしトンネルもない。道路は岩や石ころだらけの悪路ばかり。おまけに快適なホテルは少ない。ただ素晴らしいのは景観とガイドである。観光協会がガイドの資格認定をしていて、第1級ともなると言葉(英語、フランス語、ドイツ語、中国語、スペイン語、日本語、韓国語、ヒンディー語など)が話せて、体力と登山知識が抜群で一目でそれとわかる。カトマンズやポカラにはこうしたガイドを紹介する会社が山とある。シェルパ族ばかり有名だがマガール、グルング、ネワール、タカリ族にも優秀なガイドがいるのである。
問題は税金である。観光が産業化して登山家や観光客からありったけの税金を取る。入国(30ドル)から始まり、高い入山料、そして行く先々の道路にはいくつもの関門があってその都度25ルピーは取られる。村が違うとまた取られ、マオイストがまた取り、累計すればかなりの額になる。正直にいえばこんな国が観光立国となれる筈がない。
ようやく新しい政府ができる。腐敗した政治にマオイストがどれだけ新風を吹き込めるか期待したい。
4.偉そうなことを言える立場にないことを承知で敢えていうならば、この国は共和制となる可能性が高い。そうなれば莫大な王室予算が削減され、その一部が教育と医療にまわってくる。
ガンダキ県カスキ地区には40万人が住み、その半分は山村に暮らしている。山という山に人々が生きていて、子供が生まれて学校へ行く。小学校4年までのPrimary schoolは473校(私立66校)、7年生までのLower secondary schoolは54校(私立8校)そして10年生までのSecondary schoolは120校(私立50校)がある。ここでいう私立とはBoarding schoolで比較的金持ちの子供が通う学校をさし、ポカラには進学校と紛う全寮制でスパルタ教育をしている学校もある。SLC(School Leaving Certificate)という高校卒業資格試験(全国一律)があり、この学校の生徒がネパール中で1番になったと評判になった。
しかし山村では学校にも行けない子供が多く、未就学率も高くて問題になっている。その理由は学校までの道のりが遠いことや、いわゆるChild laborといって家業を手伝わなくてはならない子供が多いためである。先生の給与は安く、政府からの援助が得られない村立学校が多いから質の良い教員が少ない。おまけに教材や文具もなく校舎は貧弱で、中にはバラックもある。全ての学校での教育水準を上げるのには途方もない資金と時間が必要だろう。
カスキ地区の医療はどうか。
病院数4、応急処置センター2、ヘルスポスト(診療所)12、医師のいないヘルスポスト34、個人クリニック16、僻地クリニック173(医師なし)、産婆210名などとなっている。2003年には看護師ボランティアなどによる僻地の診療は790回行われた。 私は幾つかの無医地区を訪問したが、確かにヘルスポストはあるものの、医師も看護師もおらずに、看護助士ともいうべき男性の職員がいるだけだった。ポカラとレックナート市を除けば殆どは無医地区である。
山の村々に住む人々は自給自足で、程度の差こそあれ食べてはいける。神に感謝しながら生きていけば、悠久の流れと一体となって幸せともいえる。重い病気であれば致し方がない。自然に返る。学問も指導者がしていればそれでよい。
ところが学校が出来て優秀な子供は上の学校を目指す。教育資金が必要になり、そこで両親の苦労が始まる。子供は都会へ出て勉強すると故郷には帰らない。更に外国へ行ってしまって帰ってこなくなる者も多い。村はいつまでたっても取り残されたままである。
病気になると金持ちは都会に出て治療する。貧乏人はそのまま自然治癒力に頼るか、神頼みである。ところが、とても助からないと思っていた貧乏な心臓病の患者が、たまたま親戚を頼って都会へ出たところ、運良く親戚の知人であった日本人が治療費を工面してくれて、手術をして助かったとしよう。本人や家族親戚の喜びは一方ならないものがあろう。村人も幸運を喜んでいることだろう。
しかし、これは良いことだったかどうか、その判断は難しい問題を含んでいる。非難はされないにしても、幸運が医療と結びつく時代ではなくなっている。幸運を掴めない多くの患者が助かる方法を探す途こそ求められるのではなかろうか。
しばらく滞在するから、こうした教育や医療を担当している行政官と会う機会があるだろう。頼まれれば諾々と医療キャンプに参加してきた。それが人道的だとか崇高だとかという視点からでなく、こうした狭いながらもカスキ地区の行政から見て、どの程度の意義があり、あっただろうか改めて考え直してみたいと思う。
2006年11月29日 記 ポカラにて